天海大僧正について

戦国時代の末期から江戸初期にかけて中央で活躍した天台宗(てんだいしゅう)の名僧。

陸奥国(むつのくに)大沼郡高田(現在の会津美里町高田)の出身で、父はこの地の土豪・舟木景光、母は会津領主葦名氏の出自。幼い頃に天台宗の龍興寺で得度したのち、各地を遍歴して修学を重ねました。
会津を治めた葦名氏に始まり、武田信玄、徳川家康・秀忠・家光に仕え、特に徳川三代には政治的・宗教的な支えとなってきた人物です。焼失した比叡山(ひえいざん)の復興再建や日光東照宮の造営などに尽力しました。

108歳で没したあと、その功績を称えられ朝廷より「慈眼大師」の名を贈られます。

文殊菩薩の申し子生まれる

天文五年(一五三六) / 一歳

天海さまは両親が文殊堂にお祈りをして授かったといわれ、幼い頃からとても知識欲が旺盛だったと言われております。幼名は兵太郎といいました。

龍興寺にて十一歳で得度す

天文十五年(一五四六) / 十一歳

天海さまは龍興寺で、十一歳のときに仏門へ向けて修行に入ったのです。天台宗の寺として名高い龍興寺で、名僧で知られる弁誉舜幸法印のもと、随風という僧侶になりました。得度とは、世俗の生活から離れて、僧となって仏道の修行をすることをいいます。

長い修行の旅へ

天文十八年(一五四九) / 十四歳

天海さまは、十四歳のとき故郷を離れて、仏教だけでなく儒学(中国古代の学問)や、史学(歴史を勉強する学問)、易(古代中国から伝わった占い)などを学ぶために、各地を巡り歩くのです。

会津に戻り、稲荷堂の別当に

天正元年(一五七三) / 三十八歳

天海さまは会津の領主・葦名盛氏に切望されて帰郷すると、黒川城(今の鶴ヶ城)内にある稲荷堂を、十年近く守り通しました。ここでいう別当とは、僧侶と神職を兼務することをいいます。

葦名義広を護り、常陸へ

天正十七年(一五八九) / 五十四歳

磐梯山麓の磨上原の合戦で、葦名義広は伊達政宗に敗れました。天海さまは甲冑に身を包み、義広を護って常陸の国(茨城県北東部)へ落ち延びました。

天海さま、大僧正となる

元和二年(一六一六) / 八十一歳

天海さまの力を信じてきた初代将軍の徳川家康が、駿府(現在の静岡市)で亡くなった後、天海さまは大僧正となって徳川家のためにますます力を発揮しました。

比叡山延暦寺の復興と再建

寛永十一年(一六三四) / 九十九歳

織田信長により焼き討ちされた比叡山の復興を、天海さまは三代将軍の徳川家光に願い出て、再建が始まります。

家光にみとられ、大往生

寛永二十年(一六四三) / 一〇八歳

天海さまは一〇八歳で遷化(高僧が亡くなること)し、徳川三代が帰依(天海さまの教えを深く信仰して、その力に頼ること)した大僧正の葬儀は、大変盛大だったといわれております。

天海大僧正の功績と生涯– 歴史年表 –

天文5年(1536)/ 1歳
現在の会津美里町に生まれる。
幼名兵太郎。父舟木景光。母葦名氏。
天文15年(1546)/ 11歳
稲荷堂の別当・弁誉舜幸に随って、龍興寺にて得度し「随風」と名乗る。
天文18年(1549)/ 14〜26歳
この頃各地へ遊学。天台宗、法相宗の名刹や足利学校に学ぶ。
[ 会津の動き ] - 1553
会津領主十六代葦名盛氏立つ
[ 会津の動き ] - 1561
盛氏、向羽黒山城築城
元亀2年(1571)/ 36歳
織田信長の比叡山焼き討ちによって、甲斐へ。武田信玄の帰依を受ける。
天正元(1573)/ 38歳
葦名盛氏の求めにより会津に帰国し、稲荷堂の別当となる。約十年在住。
[ 国内の動き ] - 1573
室町幕府滅亡
[ 会津の動き ] - 1580
葦名盛氏没
天正10(1582)/ 47歳
会津天寧寺の仁庵善恕に参上し、禅の教えを受ける。
[ 国内の動き ] - 1582
武田家滅亡/本能寺の変
天正17(1589)/ 54歳
葦名家、磨上原の合戦で伊達政宗に破れ、二十代義広を護って常陸に落ち延びる。
[ 会津の動き ] - 1589
会津葦名家滅亡/伊達家支配
天正18(1590)/ 55歳
川越の無量寿寺(のちの喜多院)に行き豪海権僧正に師事し、名を「天海」と改める。 この年徳川家康と初対面。
慶長元(1596)/ 61歳
師豪海が亡くなり、その法統を継ぐ。
[ 国内の動き ] - 1600
関ヶ原の戦い
[ 国内の動き ] - 1603
江戸幕府開府
[ 国内の動き ] - 1605
徳川秀忠 二代将軍就任
慶長14(1609)/ 74歳
比叡山の東塔南光坊に住む。勅命により後陽成天皇に仏法を講義する。 権僧正となる。
慶長15(1610)/ 75歳
駿府にて家康のために天台論議を行う。
[ 国内の動き ] - 1614
大坂冬の陣
[ 国内の動き ] - 1615
大坂夏の陣
元和2(1616)/ 81歳
駿府にて家康を看病し、死後の祭祀を遺言される。家康没。大僧正となる。
元和3(1617)/ 82歳
朝廷より家康に「東照大権現」の神号を賜わる。家康の霊柩を久能山から日光山に改葬。
元和6(1620)/ 85歳
秀忠、日光山・久能山・喜多院寺領の朱印を大僧正に任せる。
[ 国内の動き ] - 1623
徳川家光 三代将軍就任
寛永2(1625)/ 90歳
東叡山寛永寺の建立に着手。
同11(1634)/ 99歳
家光に比叡山諸堂舎の復興再建を願う。
寛永13(1636)/ 101歳
日光東照社の再造営竣工する。比叡山大講堂が再建される。
[ 国内の動き ] - 1637
島原の乱
寛永20(1643)/ 108歳
病気に臥す。10月2日遷化。
慶安元(1648)/ --
朝廷より「慈眼大師」の諡号を賜わる。

参考:上野寛永寺慈眼大師略年表

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