陸奥會津の内、一の巓嶽あり。

戦国時代、会津を治めた葦名盛氏が築城し、北の風雲児・伊達政宗、豊臣秀吉に信頼厚い蒲生氏郷がそれぞれ重要な要衝として改修を加える。上杉景勝・直江兼続主従が最後の砦とした東北最大級の天然の要害「向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)」。

葦名家紋
1189~1589年の400年間会津を封ずる。
全盛期の石高は72万石。

葦名の時代

会津の葦名氏は相模(神奈川県)の三浦一族。1192年に鎌倉幕府を樹立した源頼朝の御家人として、多大な軍功により、会津の穀倉地帯である北部を中心に領地を得たといいます。

葦名氏の全盛期を築いたたのが16代盛氏で、最大の勢力を誇ったのは戦国の世もたけなわのころ。領内の豪族をまとめあげ一枚岩とした盛氏は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを従え、百万石の会津太守と謳われ葦名家中興の祖と呼ばれるようになりました。8年の歳月をかけて向羽黒山城を築いたのも盛氏です。
しかし、盛氏の嫡男で17代の盛興は、世継を残さず天正2年(1574)29歳の若さで病没。そのため盛氏は、残された盛興婦人(伊達氏女)に、須賀川から人質の二階堂盛隆を婿にして葦名家を継がせましたが家臣に斬殺され、その子亀若(王)丸も幼年のまま病死してしまいます。

全盛期を築いた盛氏でしたが、天正8年に60歳で没して以降、その後の養子問題でも家中が乱れ、運命の天正17年(1589)、磐梯山麓の摺上原の合戦で伊達政宗に大敗し、会津支配400年の歴史に終止符を打たれてしまいます。

国指定史跡「向羽黒山城跡」

平成13年8月7日、国の史跡指定となった向羽黒山城の遺構の巨大さは東北随一。上杉謙信の居城であった春日山城をも凌ぐといわれており、全国でも有数の山城として熱い視線が注がれています。盛氏以降の時代にならないと出現しない遺構も多く存在することから、歴代の会津領主(伊達・蒲生・上杉氏)が改修を繰り返していたことがわかっています。

“天地人”の直江山城守兼続も目をつけた
向羽黒山城

時代は下り、上杉景勝の時代、豊臣秀吉の死後徳川家康が改権をつかむと、秀吉の重臣であった景勝にも圧力をかけてきました。有名な「直江状」は会津で書かれたものです。

徳川家康の会津攻撃の報を聞くや、景勝は神指城の築城をやめ、白河方面の防塁を築き始めました。しかし、それ以前に向羽黒山城にすでに手を加えていたことはあまり知られていません。景勝は、会津に入ると真っ先に、向羽黒山城を2年間かけて大改修しているといわれています。

景勝・兼続は、向羽黒山城を対家康戦の最後の砦として考えていた説もあり、会津で東北の関ヶ原が行われていれば、最も重要な砦となりえる山城であったのです。

関連施設

向羽黒ギャラリー

向羽黒山城跡を紹介する施設です。
これまでの調査の状況や環境整備の状況を写真パネルで紹介・説明するとともに山城跡のジオラマ模型や、山城を築城した蘆名盛氏公をはじめとする蘆名氏の関連資料も紹介しております。

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土、日祝日
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パンフレット

向羽黒山城跡リーフレット
PDF - 9.4MB

このリーフレットをご覧いただきますと、天地人と向羽黒山城跡の関係、マンガの神様手塚治虫氏と会津の関係が一目でお分かりいただけます。

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