今回は先日紹介した「龍興寺」と縁の深い「天海大僧正」について会津美里町との関わりについても含めながら説明していきたいと思います。

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↑会津美里町公民館にある天海大僧正の像。

天海大僧正はまたの慈眼大師と呼ばれ、徳川家康、秀忠、家光の三代にかけて徳川家に仕え、江戸幕府に対して強い影響力を持っていました。
直江兼続のように表には出ずに裏方で大名にこうしたらいいのではないかと助言をするという役割を持っていた人物ということになります。
当時の僧侶は今の僧侶のイメージとは違っており、膨大な知識を持ち、それを戦国大名は頼りにしていました。

その天海大僧正はなんとこの会津美里町(旧 会津高田町)出身だと言われており、天海大僧正の両親といわれている舟木兵部少輔景光夫妻のお墓が龍興寺にあるのです。
景光夫妻には長い間子どもに恵まれず、神仏に祈った末で天海を授かったといわれています。

11歳のときに龍興寺で出家した天海は名を「隋風」、号を「無心」と称しました。
天海は400年もの間、会津をおさめていた葦名氏とも深い関わりを持っていましたが、葦名氏が伊達政宗に敗れてからは会津から離れ、関東方面で活躍しました。

天正18年に天海と名を改めて、関東の天台宗の中心僧となり、
その後に徳川家康に仕えることになりました。
家康の死後は東照大権現という贈号と日光山への改葬なども主導し、
寛永寺の創建などにも携わり、江戸初期に幕府に大きな影響力を持った僧だったのです。

その天海が会津高田出身で龍興寺が僧としての始まりだったというのは自慢できることだと思います。

天海大僧正については諸説があり、明智光秀であったという説もありますが、
当時の年齢的にも難しいので別人物と考えても良いでしょう。

天海大僧正についてはまだまだ秘密があるようなので、また機会があったらご紹介したいと思います。
美里蔵についてはこちら

Published On: 2010年5月27日Categories: お知らせTags: ,

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