天海シリーズも第3回目を無事に迎えることができました!
本日も天海についてご紹介していきたいと思います。
◆今回のテーマ:天海大僧正はどうして出家したの?
■出家への決意■
天海が8歳の時、高田城(現在の高田中学校の北側辺り)の筆頭家老である父は暗殺され、天海の運命が変わります。
彼は生前から仏門への関心があった父の遺志をついで仏道に飛び込もうと決意しますが、葦名一族などの猛反対を受けます。
しかし、天海は反対を押し切って仏門の道へと飛び込んでしまいます。その際に出家したのが、会津美里町にある龍興寺(りゅうこうじ)であるといわれています。龍興寺の宗派は天台宗ですので、すなわち、天海の宗派も天台宗ということになります。
龍興寺は僧侶としての第一歩を踏み出した場所ということになります。
天海は11歳の時に出家し、『随風(ずいふう)』と法名を与えられました。以来、54歳の時に『天海』と名を改めるまで、随風という法名で活動していました。
天海は龍興寺に入門して3年間そこで修行したといわれています。
天海は14歳のときに諸国に修行に出て、下野国宇都宮(現在の栃木県)の粉河寺では僧正皇舜(こうしゅん)を師として教えを受けました。
天文22年(1553)、天海が18歳のときに天台宗総本山でもある比叡山(ひえいざん)(現在の大津市と京都市の間にあります)に登り、様々な事を学びました。
永禄元年(1558)、23歳のときに京・奈良で勉学に励んでいましたが、会津にいる母が病気だということを知らされます。天海は急いで会津に帰り、母の看病に専念しますが、その甲斐もなく母は亡くなってしまいます。
母の死後、天海は足利学校(現在の栃木県)でも学びました。漢学や易学を身に付けたことにより、幅広い知識と柔軟な思考力が培(つちか)われたことが考えられます。特に易学を身につけたことが天海のカリスマ性に磨きをかけました。易学とは中国の儒教の教えの一つ『易経』を解釈した学問ことです。易とは占いのことを指します。
次回は天海が出家した龍興寺についてご紹介していきたいと思います。
●「まちあるき」途中で見つけたお菓子屋さんコーナー●
今回は地元の皆さんに「ますパン」という愛称で親しまれているパンを作っている「ますや菓子舗」さんをご紹介したいと思います!
「ますや菓子舗」さんは前回ご紹介した「会津菓子処 小林開花堂」さんの近くにあります。
他にも素敵なパンがたくさんあります!
しかし、早めにいかないと売り切れている場合がありますので、ご注意ください。
「ますや菓子舗」さんについてはこちらをご参考にどうぞ。
次回も引き続き天海を紹介しつつ、会津美里町のおいしいお菓子をご紹介していきたいと思いますので、お楽しみに!!